4月から仕事に復帰するお母さんたちへ
やっと保育園決まった!のお母さんも、決まらなかったどうしよう。のお母さんもいらっしゃると思います。
今日は、保育園決まった!のお母さんへ
子供とべったりの生活から脱して、4月から仕事に復帰だ!とうれしいような、寂しいような、不安なような今はそんな気持ちだと思います。
そんなお母さんたちへ覚えていてほしいことが3つあります。
1)復帰するのだから、精いっぱい働くこと。
出産前と同じ業務量をこなすことから逃げないこと。
2)今一番優先すべきは何かをたまに振り返ること。
3)何があっても、自分を責めないこと。
1)厳しいかもしれませんが、復帰前と同じ給与をもらうわけですから、しっかり周りに迷惑をかけないように働くのは当たり前です。時短を使っても、どんな制度を使ってもいいですが、育児中だから、「これだけしかできません」は許されません。急に休みが発生しそうなら、前倒しで仕事をする。万一、急に休まざるを得なくなったときのために、マニュアルを整備したり、いろんな資料をわかりやすく保存しておく。
精一杯やる姿勢から、周りの理解や協力は生まれます。
育児中なのでできません。では、周りは協力してくれないです。
でも、結構この1番目は皆さん理解していて、だからこそ苦しんでいる人が多いのです。
なので、2)今優先すべきは何かを考えてみましょう。1日24時間。睡眠時間を引いて、8時間会社に行って、通勤時間で1時間? その残りの時間で何をするか。
子供の体を考えて手料理を作りたい、休みの日は、子供の習い事もさせたい。家もきれいに片づけたい。。。これ、無理です。何が譲れないのか、何なら、自分以外の人でもできるのか。ゆっくり考えてみてください。夫や両親、アウトソーシングなどいろいろ外注する手段はあります。
やりたいことの洗い出し→自分がやらなくてはいけないことの絞り込み。
仕事と同じようでいやかもしれませんが、まずはここからです。
そして、忘れてほしくないのが、その「やりたいこと」で自分はどんな生活を得たいのか。なのです。子供との楽しい生活のはずが、やりたいことを詰め込みすぎて笑顔のない生活になっていませんか?
最後に、3)何があっても自分を責めないこと。これは、職場でも、夫との関係でも、子育てでもそうです。自分を責めるのって、楽なことでもあるし、辛いことでもあります。頑張って仕事しているつもりが、重要なプロジェクトから外されたり、お互い仕事に忙しくて夫とはぎくしゃくしちゃったり、子供の病気が悪化して入院しちゃったり(子供の入院って、何故か周りからも責められますよね)、いつも帰宅時間が遅くて子供から「ママ嫌い!」と言われたり。
まぁ、いろいろあります。でも、私が悪かったんだと思わないこと。
あなたは、そのとき、できる一番のことをやってきた。だから、いま起こっていることが自分の望まないことでも仕方ない。といったん自分の責任を切り離してください。もっと頑張ろうなんて思わないで。(本当に悪いこともあるので、時には反省も必要ですが)
気持ちが落ち着いたら、前向きにどうしようか?と考えてみてください。自分を責めるのではなく。
ママと一緒だった生活から離れる子供も不安なのです。
ママが笑顔で仕事に復帰して、そんな不安な子供の気持ちに寄り添ってあげられますように。
アートをきっかけに考える
「ようこそ井戸端会議へ!」プロジェクトとして基山町の委託で基山フューチャーセンターラボが実施しているイベントに参加。この「ようこそ井戸端会議へ!」のプロジェクトは、子育て・孫育て中、地域で子供と関わる方など幅広い方を対象にしていて、内容も、幅広いのです。フラワーアレンジメントや片付けの話、そして、コミュニケーション、今回、私が参加させていただいたのは、「アートで考える力を育む」と題して、京都造形芸術大学の岡崎大輔先生をお招きしての内容でした。
岡崎先生は、「対話型鑑賞プログラム」というアートをただ鑑賞するのではなく、鑑賞する人が互いにコミュニケーションをとることで、新たな気づきを得るという鑑賞スタイルでワークショップや、企業研修を実施されていらっしゃる方です。
ACOP / エイコップ(Art Communication Project)とは、「みる・考える・話す・聴く」の4つを基本とした対話型鑑賞プログラムです。美術史等の知識だけに偏らず、鑑賞者同士のコミュニケーションを通して、美術作品を読み解いていく鑑賞方法を提唱しています。
ACOP アート・コミュニケーション研究センター|京都造形芸術大学
実際に、「対話型鑑賞プログラム」と体験して、まずは、「一人でみる」(この時間をたっぷりとるのも印象的でした)そして、「考える」そのあと、互いに「話す」のですが、この「話す」ことで、自分の気づきが膨らむのです。今までじっくり時間をかけてみていたのに、背景に気づいていないものが描かれていたり、表情が違ってみえたり、自分が持っている思考のフレームをどう外すか苦労することが多いのですが、対話することで、すっと受け入れられます。もちろん、どうやっても、私にはそうみえないわ・・・みたいなこともあります。
その中で私が気づいたのは、作品をみるとき、人は自分の記憶の整理をしているのではないかということです。自分の過去の経験、出会った人、感じたこと、普段記憶の中に埋もれているものには、実はタグのようなものがついていると私は思っているのですが、作品をみることで、そのタグを辿っていく作業を脳の中でしているのでは?と感じました。例えば、口が開いた人の顔の絵をみて、過去に同じような表情をした人とであった光景を思い起こし、そのときに、自分が感じたことにより、作品の受け止めも変わるのではないかと。うまく説明できないのですが、口が開いた人が「笑顔で何かを楽しんでいる」と受け止めるのは、同じだったとしても、過去に自分も一緒に楽しんだ経験を思い出す人もいれば、自分は輪に入れなかったと思いだす人もいる。さらに、その笑顔の経験が、何かをやる最中なのか、やりとげた後なのか、その過程によっても、生まれてくる感情が違ってくると思います。笑顔の人物画一つとっても、人がその絵をどう受け止めるかは、その鑑賞者の過去の経験、感情、そのときの状況に左右されるのだと改めて感じ、それは、「記憶の整理」ともいえるのではないかと感じたのです。
そう考えると、アートというものは、作品を作る人にとっても、作品を鑑賞する人にとっても、「自分の人生の何か」といえるのかなと。
アートとはそこにはない何かをそこにみる行為
と、岡崎先生も昨日おっしゃられていたし、私がこれまで思っていた、アートとか、美術鑑賞というものが狭義のもので、実は、アートというのは、もっと身近で奥深いものなんですね。
私は、美術なんて全く興味がなかったのですが、それって、学校の授業で、感想を強要された経験の弊害かも。
全体の振り返りの際に、子供が絵を鑑賞するときのポイントを伺ったのですが、語彙力が不足していると表現に困ることがあるけど、しっかり感じているということ、絵をみてどう感じるのかを丁寧に聞いていく、絵のどの部分からそう思うのかということ。
さっそく実践してみようと思いました。
まさか自分が美術館に行きたいなんて思うとは思わなかったけど、人生っていろんな出会いがあって、面白い。
「いじめの原因は脳にある!」
産業カウンセリング 2018年1月号
脳科学者の中野信子さんのインタビューは「いじめの原因は脳にある!」との刺激的なタイトルでした。
いじめというのは、社会的排除のうち学校で行われるものです。・・・ち(中略)
社会的排除が起こるとき、私たちは利他的懲罰を行います。他者のために私がリスクを背負って懲らしめてやりましょうという行動です。
利他的懲罰は非常にやっかいな存在で、やっている本人は利他的なつもりなのです。自身においてリベンジなどのリスクがあるのに懲罰を行う正義の味方だと考えるのです。そして利他的懲罰には社会主義を実行する快感が伴います。
(中略)
誰でもこうした行動に走る可能性がある
(中略)
ネットにおける人間関係の在り方や変化の様相は人間の脳が情報を処理できる範囲よりも、少し速かったり近かったりするのだと思います。仕事には便利な速さや近さだったりしますが、人間の脳はそこまで進化しきれていないのでしょう。
(中略)
クイックレスポンスな上に人と人の距離感を持つ余裕がありません。例えるなら騒動の渦中にいる人が自分との地続きにいるような感覚で攻撃してしまうのです。
さらにネット空間におけるコミュニティは、時間と空間の制約がないため、似たような意見の人を集めることが容易で、こうした均質な空間では、攻撃欲求が激化しやすいのです。しかも対象を失うと、また別の標的を探します。
ネットを見ていて、自分も攻撃的になってしまったなと感じたら、PCを消すのが一番です。私もそうしています。
ネットという便利なものが与える影響について、脳科学者の立場からの意見が勉強になります。そして、PCを消すのが一番とのことに、ネットとのかかわりを改めて考えました。
利便性は捨てきれないものの、子供などその影響を受けやすい層が、ネットとどうかかわるのか、そして、自分を客観的にみるにはどうすればいいのかはよく考えていきたいと思います。
加えて、会社の中の人間関係が、SNSなどでプライベートでも続いている例が最近は増えてきており、SNSでのトラブルが会社での人間関係に影響を及ぼすことも増えてきています。会社とプライベートの境界は難しいですし、会社がどこまでそれに関与するのかも答えはありませんが、会社でもSNSの使い方や距離の取り方についても研修などで話をする必要がでてくるように思います。
会社の負担はますます増すばかりとの意見も聞こえますが、そこをうまくコントロールしていける会社がこれからは強い組織
気がきかないと言われないために
「最近の若手は気がきかなくて」は、よく聞く言葉ではないでしょうか?
言われたことしかしない指示待ち型。
私はかつてそう言われたことがあります。
何故そういわれたのか考えてみると、
・手伝いましょうか?と声をかける回数が少なかった。雑用は手伝っていたけど、上司は気づいていなかった。
・仕事の流れが一通りわからないと動けないタイプ
・とにかくアピールが下手
こんなかんじになりました。
かなり昔の話なので、いまとは違うところもありますが、基本的には変わってないかもしれません。
気がきかなくての愚痴の裏側には、この資料を使う用途を考えて作って欲しいとか、接待の時のお酌だったり、幅広い要望がありますが、仕事のことに限って言えば、担当している若手の資料をどのように使うかまで情報共有して、指示がされているか。例えば、若手が気をきかせた方向性が間違えていたときに「言われたことだけやればいいんだよ!」なんて、暴言を言ってしまってないか、思い返してみてください。
情報共有は、しっかり対面で行うこと。メールの写しを入れて背景を汲み取れるのは、ベテランだけです。
気がきいた部下は、仕事しやすいのですが、それは上司が楽をしているだけ。気がきかない部下には、丁寧な情報共有を。そして、安易に気がきかないからダメというレッテルをはらないでください。私のようなホントに気がきかないタイプもいますが、見えないところを地道にフォローしている人もいます。自分がいないときに、周りとどう接しているかもよく聞いてみてください。
そして、若手のみなさんには、上司とのコミュニケーションはしつこくやることをおすすめします。案外黙ってやる仕事は、伝わらない、見えていないものですから。
会社に生息する擬音系上司
擬音系上司、あなたの会社にはいますか?
「まるっと」「どかーん」「ぱしっと」「しれっと」
というような擬音系の言葉での指示、案外会社で多く行われているものです。
これは、企業の文化を共有していることもありますが、その上司の考え方を理解して、背景を読み、この資料はどこで使うのか(例えば、お客様なのか、社内会議なのか)のような目的も理解しているから、擬音系指示でもわかるものです。
「アレやっといて」という指示でいつもの「アレ」ですね。とわかるというのは、もうほとんど指示がなくてもやれるレベルで、「アレやっといて」という指示はその方の自己満足でしかないと思うのです。
同じようによくあるのが、職場の長く勤務している女性が、いろいろ職場の雑事をこなして、お母さん化しているケース。「アレ」「コレ」「ソレ」で通じますし、何もいわなくても、全部やってくれていたりしています。
もうすでにその時代は、会社によっては終わっていて、「〇〇部長の指示がよくわからない」と言われていたりしますし、上司側の「最近のやつは気がきかないなー」という愚痴は自分の指示が明確でないこと以外の何者でもないわけです。
で、それをなんとかしようと「風通しのいい会社にしよう!」と社内イベントである運動会や飲み会を開催したりしている会社もありますが、それで解決する問題もありますが、それではどうしようもない業務指示の問題も多くみられます。
先日は、おそらく部下とコミュニケーションをとらないと、仕事の進捗確認をしないとと思っている上司の方が、「アレ、どうなっている?」と問い、「アレですね。特になにも指摘ありませんでした」という会話を、電車の中で聞きました。もしかしたら、上司の「アレ」と部下の「アレ」が違うかもね。とか、何も指摘なくてよかったことなのか、それとも、誰の関心もなかったということなのか・・・なんて思ってしまいました。
擬音もですが、いろんなことが多様性の時代、もういやになるくらいのコミュニケーションが必要になってきています。コミュニケーションとらないとと思って声をかけたその一言が、もうすでに擬音系になっていないか、アレ、コレ、ソレになっていないか見直してみてください。私も同一文化で育った世代ですから、擬音系指示になっていないか気を付けます。
これからは「個の力」の時代
子供と行った近くの図書館で、出口治明さんの本「人生を面白くする 本物の教養」を発見し、借りてきました。
第一章の「教養とは何か」から始まり、「日本のリーダー層は勉強が足りない」「出口流・知的生産の方法」「本を読む」「人に会う」「旅に出る」「教養としての時事問題」「英語はあなたの人生を変える」と続き、最後の章は「自分の頭で考える生き方」でした。
その中で印象的だったのは、
日本は、「キャッチアップモデル、人口増加、高度成長」の三点セットがきわめてうまく機能したピラミッド型社会、それが戦後の日本の社会
というフレーズ。
そして、
青田買い、終身雇用、年功序列、定年制というワンセットの労働慣行のなかでは、大学で何を勉強したとか、教養があるとかないとか、そのようなことは一切問われません。極論すれば個人の個性や主体性などは、実はどうでもよかったのです。むしろ言われた通りに働く没個性な集団のほうが都合がよかった。そのような社会システムのもとで、日本は高度成長を謳歌し、復興を果たしてきたのです。
・・・中略・・・
人口が減り始め成長が止まり、あらゆる指標が頭打ちになったいまの日本こそ、普通の国に戻ったというべきです。
普通の国に戻った日本ですが、本に書かれている通り、企業の戦略はまだ過去の成長モデルのままです。やっと、ごく一部の企業で変わり始めているというところでしょうか。採用はまだ画一的ですし、大学院での研究や経験を活かした配置ができているかというとまだまだです。
やっと企業でもダイバーシティという言葉が注目され始め、副業が容認(まだ積極的な企業は少ないので、あくまで「容認」で「推奨」ではないのが残念です)されるようになってきました。これは、この本にある「個の力」が問われてくるようになった時代であることに気づきはじめた人が増えてきたからだと思います。
ただし、「個の力」は、個人個人の個性を発揮すればよいかというとそうではありません。この本のなかでは、教養は
行き詰まりをブレイクスルーするオリジナリティ、さまざまな相手を惹きつける「面白さ」「人間的魅力」、自分の頭で考える力
とかかれている一節があります。ただ、情報を知っているのでは、いまはネットで調べられる時代ですから、さほど価値はありません。その情報を自分の中で蓄積、整理し、応用して実践できること、そのためには、自分の頭で考えることが必要なのです。
今、政府が大人の学びを一生懸命呼びかけていますが、それは、国際競争に勝つためには、学ばなくては勝てないからです。勝ち負けがすべてではないものの、競争力を強くするためには、これまでのいろんな考え方を変えて、個人個人の能力をより発揮するためには何ができるかに取り組む時代に変化してきているのでしょう。
そして、私は「個の力」を増すためは、①振り返り力(自分の経験を振り返り、これからの人生プランを立てる力)、②繋がり力(いろんな人の強みを理解し、繋がることで、自分にかけている強みを補う力、チームでバランスよくそれぞれの強みを活かしていくように土台を整える力)、③自己プロデュース力(個人の強みや、所属している組織の魅力を相手に伝え、周りにファンを増やす力)の3つが必要だと思っています。
本の第一章では、「教養とは、人生におけるワクワクすること、面白いことや、楽しいことを増やすためのツールです」と書かれています。教養をワクワクの種と考えると、ちょっと難しい本や、これまで興味がなかったジャンルにも手が伸びるかもしれません。過去の成長モデルを捨て、新しい成長モデルを手にいれるためにも、まずは、本を読み、街にでかけて、自分の頭で考えることを徹底していくことが求められています。
まずは、難しく考えすぎず、本を一冊手にとる、これまでいったことのない場所へ旅するなど、自分のできそうなことからはじめてみてはいかがでしょうか。
私も、これまで手にとらなかったようなジャンルや作家の本を手にとることからはじめてみたいと思います。
カジメン・イクメンよりも夫婦にとって大切なこと
子供が1人とはいえ、6歳児を置いて研修、勉強会、1年前までは、かなり残業もある仕事をしていた私。
よく、夫が家事や育児をすると思われています。が、そんなにする方ではありません。
仕事に理解があるのですね!と言われますが、そんなに理解しているわけでもありません。夫は家事を全くしない方ではないですが、基本、外出するときは、私が夕ご飯を作ってでかけるか、外食してもらうか。昼ご飯すら、気が向かないと作らない感じです。
イクメンかといわれると、まぁ、子供を遊びに連れて行ってくれることもあるし、こちらも、まぁする方かなーという程度。
夫婦で、家事分担を話うことも、今後のキャリアの話をすることも、ありません(笑)
ただ、私がどこに行って何をしているか、聞くこともなければ、それにダメ出しをすることもありません。私にとっては、それがとても心地よく、遠慮なく、お金も使い、時間も使い勉強することができます。
たまには、少し位コレやっておいてよね!と喧嘩にはなりますが、世間でいま騒がれているような、家事・育児をする人になってほしいとは思っていません。
もし、そうせざるをえない環境になればすると思っているので、私が万一、別の場所で仕事するようになったり、先に死んじゃったり、そんなことがあれば、なんとかするだろうと思っています。
それは、私自身が料理をしたり、片づけたりしたいから。何作ろうかと考えて、作って、食べてもらうのが好きなので、自分でやりたいのです。相手にしてもらうよりも、自分がしたい。それがいいか悪いかは別として、心地よいのですね。
何がいいたいかというと、よく、育児や家事の分担について、若い世代の方から相談をうけるのですが、それは、夫婦のバランスでとしか回答できないよということなのです。しっかり分担したい人もいれば、私のように、気にならない人もいるし、しっかりビジョンを共有したい人もいれば、夫婦でも別々なので、ビジョンを共有しなくてよい人もいる。私の場合は、自分のビジョンはあるけど、それはあくまで私のビジョンだから、言わない感じです。
いろんなものの前提は、その夫婦の中に信頼関係があるかどうか。もし、しっかり分担したいと思えば、それを前提に話し合えばいいし、そうではなくて、労いの言葉ほしいのであれば、そのような関係をつくればいい。(よく労いの言葉をかけてほしいということだけ言われますが、これ、お互いにやらないとだめですよ。頑張っているのは自分だけではないので)
家事の分担や育児の分担は、互いの信頼関係の上の話。仕事の上司と部下の関係もそうですが、お互いの信頼関係がなければ、そこでどんなコミュニケーションをとっても、一方通行のままです。女性はどうしても育児や家事の大変さをわかってほしいとなりますし、男性は、オレは仕事で大変なんだよ!となる。
まずは、結婚生活をはじめたころを思い出して、お互いに信頼すること。そのうえで、分担をどうするかを交渉していくこと。
間違えても、隣の〇〇さんや、お友達の××さんの事例をだすのではなく、私ががどうしてほしいのか、夫はどうしたいのか、どこが落としどころなのか、よく考えて話をしてみてください。そして、話すときは「私は・・・」を主語に。